日本語と英語、どちらが先か(3)

(2)の続き。アメリカに来てよくなかったことは何だろう。これはできれば書きたくない。なぜなら私自身がネガティブな気持ちになるから。
(E)日本の家族や友達とすぐに会えない
(F)日本語を使う(もしくは日本人に会う)機会が減る
(G)日本の習慣を忘れる
(H)日本を素直に誇れなくなる
(E)日本から距離が離れるのは決定的だ。オハイオから日本まではシカゴ、もしくはデトロイト経由で15時間かかる。私はこれで飛行機が嫌いになった。私はなぜか飛行機の中で寝ることができない性分なので、大抵、本を読むか、パソコンをいじるか、ボーっと考え事をしている。映画はエンジン音がうるさくて聞こえないので、あまり観ない。そうなると、日本に着く5時間前ほどからの数時間は苦痛以外の何者でも無くなるのである。しかも機内食はどうしても好きになれない。
少しばかり飛行機に対する個人的な恨みを書いてしまったが、これだけ距離が離れると、昔の船しかなかった時代に比べたら遥かに便利になったとはいえ、日本にいる家族や友達に会うのは一苦労である。いままでにサークルの友達が何人も結婚したが、その結婚式にはまだ一度も行っていない。知らされたときにはすでに別の日に日本に帰ることが決まっていたり、日本に帰った直後だったりしたのだ。つくづく私は友達甲斐のない奴である。何をおいても駆けつけたい奴らもいるのだが、そいつらはまだ結婚しなさそうだし(笑)それだけではなくて、祖父母や両親にも不孝である。大学へ行くために家を出て以来、大学に在学中は月に1度ほど帰れたのが、今では年に1度になってしまった。まあ東京などに住んでいても同じことなのだろうけど、もしなにかあったときなどにも駆けつけることができないし、親不孝者だと思う。
(F)私の大学院には日本人が少ない。何の意図か、偶然か、ちょうど同期で私を含めて生物学系に3人いるが、それ以前に1人いたきりで、それ以後も私の知る限り、生物学系の大学院に日本人は入ってきていない。ついでに、うちの学部には日本人のポスドクはいない。よって、日本語を話す機会は週に数分あるかないかである。これでは日本語を忘れてしまうのも時間の問題のように思われるので、このブログで練習している次第である(笑)しかしここまでで挙げたことは、実は個人の努力によってなんとでもなる。現在は電話しかなかった時代とは違い、インターネットがありウェブカメラも簡単に手に入るので、Skypeなどを使えば、顔を見ながら日本にいる人とリアルタイムで話すことが可能である。しかも安い。もちろんこれは話す人がいれば、ということである。同期の1人は日本に彼女がいるので、それで毎週連絡を取っている。羨ましい。
(G)アメリカに長くいると、たまに日本に帰った時に、日本に初めて旅行に来たアメリカ人の気持ちが少しだけわかるような気がする。以前冬に帰ったときには、部屋(特に浴室)の寒さに驚いた。これは私がアメリカで住んできたアパートメントはすべからく全室温度調節されていたことによる。それが普通になってしまうと、日本の部屋の寒さや暑さに耐えられなくなってしまうのだ。我ながら情けない。また、以前いた研究室や知り合いの研究室を訪問したときにお茶が出てきたときは、感激した。そんな経験がアメリカではなかったからである。それで必要以上に自分がもてなされているような気になるのである。他には道の綺麗さ、駅のトイレの汚さなど、まあ日本にいたときはなんとも思っていなかったことに、まるで珍しいものを見たような気にさせられることもある。これらは一概に悪いとは言えないが、もっと長くアメリカにいると、こういう表面的なことだけでなく、基本的な習慣(文化)も知らず知らずのうちに忘れてしまうかもしれない。
(H)この部分はちょっと攻撃的になるかもしれないので、それが嫌な方は読まないことをお勧めします。(2)でも書いたのだが、アメリカに来ると日本を自分と切り離して考えることができるようになる。それと同時に、以前の自分の考え方と現在の自分の考え方を比較してみて、「日本人的」な考え方の一般論を推測することもできる。そうなると、どうしても現在の自分を肯定する立場からか、もしくは論理的な推論の結果か、「日本人的」なものの短所が多く目に付くようになる。例えば、「日本の技術は世界一」、「日本の文化は世界中で注目されている」などの慢心、それでいて他人の顔を見ながら話すことができない臆病さ、他所から来た人を排除しようとする鎖国精神などである。断っておくと、これらはすべて私も多少なりとも持っているものである。小さい頃から育まれた気質など数年では抜けない。でもこれらに対する考え方は変わった。日本にはもちろん、素晴らしいところが多い。例えば、礼儀正しさ、他人への気遣い、勤勉さなどは誇ってもいいと思う。でもそれを自覚し、思い込むあまり、盲目になりがちな気質がちょっと嫌なのである。これはいわば葛藤であるとも言える。日本(または自分自身)が好きだけど、嫌いなところもあるのだ(総合的には好きである)。以前、思い込みが自分に与えたいい影響について言及したけど、これは悪い影響であるとも言える。
一つ嫌な思い出がある。アメリカに来た当初、日本人の知り合いの方がお世話になっていた、アメリカ人の老夫婦に私もお世話になっていたのだが、おじいさん(デイヴィッド)が私を空港まで送り届けてくれる車の中で、「東京って世界で一番大きな都市なんだね。ウェブで見てびっくりしたよ。」と言った。そのとき、私は彼は日本のことは何もしらないんだな、と思い、いかに日本がすごいか(車が多い、人が多い、なんでも手に入る)などをツラツラと述べたように思う。彼はそのとき、ちょっと戸惑っていたようだったが、普通に相槌を打っていた。でも後から考えてみると、あの時彼はあまりいい気がしていなかっただろう。私はそのとき、偏狭な価値観からアメリカを見下していた。アメリカに来てしばらくして、文化も違う、友達もいない、何もかもスムーズに行かない不安と劣等感に苛まれていたのかもしれない。今から思い出しても、恥ずかしい。私は日本についても、アメリカについても、何も知らなかったのである。
まあ、そうは言っても、盲目さはなにも日本だけに言えることではない、アメリカ人にも大いにある気質だと思う。アメリカ人はアメリカが世界だと思っているような節があるし(最近は少し緩和されたが)、アメリカが一番幸せな場所だと信じている人が多い。それでもアメリカの寛容さ、柔軟さは見習うべきところがあると思う。結局のところ、世界で一番の国や人なんてない、それにただ気がついただけかもしれない。
じゃあアメリカに留学したことはよかったのか悪かったのか、私は良かったと思う。別に大学院だけじゃなくて、(お金さえあれば)語学留学をするのも悪いことじゃない。でもできれば、日本人には英語のためじゃなくて、勉強のためにアメリカに来て欲しい。それも単に「外国を見る」ためじゃなく、「日本を見る(もしくは知る)」ために。そしてもちろん、能力を伸ばすために。アフリカで大学を卒業した人には、「Responsibility(責任)」よりも「Entitlement(特権)」を感じる人のほうが多い(TED Talk: Patrick Awuah on educating a new generation of African leaders)。日本はそうなってはいないだろうか。チャンスを認識して(盲目に信仰するのではなく)、それを最大限に生かして能力を高める、それが日本という豊かな国に生まれた人の「責任」じゃないかな。