日本語と英語、どちらが先か(1)

なんとなく思いつきですが、少しアメリカに来て思ったことを書かせてください。
私はアメリカに来てからというもの、日本のことを忘れたことはない。と言っても自分の記憶の中にある日本がほとんど全てであるし、まだアメリカに来て5年しか経っていないから思い出せるからかもしれない。しかしながら、これからもしアメリカに10年、20年居なくちゃならなくなったとしても、アメリカが故郷になることはない。そういう意味で、常に日本とは分かちがたい関係を持っている。そして、どちらが優っているとか劣っているとかでなく、私自身が日本のことを好きである。
では、なぜ日本を離れたのか、ということになると、三つの理由がある。一つは将来への期待であり、一つは現状からの逃避であり、あと一つは英語である。この三つは完全には分けられないもので互いに結びついているものだけれども、あえて分けることにする。
昨今、アメリカ経済が落ち込んで、アメリカ一辺倒の風潮は変わりつつあるけれども、当時も今も、生命科学研究においては、アメリカは規模でも質でも日本と比べて大きなアドバンテージを持っている。その環境で勉強することができれば、将来自分のためになるのは間違いなく、ひょっとしたらいい職に就く事も容易になるんじゃないか、そんな(ナイーブな)思い込みもあって、アメリカに行くことにあまり迷いはなかった。昔は家族で海外旅行に行ってもホテルに閉じこもるのが好きで外の世界を見歩くことが全然好きじゃなかったのに、なぜかアメリカに行くことに関しては、そこまで不安を感じなかった。
その当時所属していた研究室では、グループで研究をしていて、率直に言ってしまえば日本の古き師弟関係のようなものが存在しており、与えられた仕事といえば雑用かさして重要でないルーチンの実験だけであった。そのころの私は結構反抗的な所があって、そんな実験は実験じゃないとばかりに、先輩とちょっとした言い合いをしたこともあった。そういう状況で、日本の研究室が絶望的に思えたのは当然の帰結で、「きっとアメリカの研究室はもっと学生に独立した、自由な実験をさせているに違いない。」と半ば妄想に似た夢を描いていたわけである。まあこれは当たらずとも遠からずではあったけど。
英語の重要性というものは、小さい頃から聞かされていた。といっても、小さい頃から英語の勉強をやらされていたわけでなく、ただ単に、「将来戦争になったときにどこへでも逃げられるようにするには英語が必要だ」とか「これから外国との関係がさらに緊密になるだろうから、英語でコミュニケーションできる能力がいる」とかいうのを聞いていただけで、中学や高校の英語の授業以外には英語を習ったことはなかった。ただ、母がホームステイに熱心で、海外からの旅行者などをよく家に泊めていたので、海外の人に触れる機会はあった。私はシャイだから全然喋らなかったけれども(笑)
こういうわけで、「アメリカに行くなら今しかない」と決心してみたのだけど、実際に行こうという段になってなかなか事はうまく運ばない。まず、周囲の支持が得られない。別の研究室の先輩に一人アメリカに大学院留学をした方がおられたが、それ以外は前例もなく、研究室の誰も何も知らないし、教授も協力的ではない。推薦状を書いてもらおうと思っても、自分で原稿を書いてそれを渡したら、そのままOKという感じで、それはそれでいいんだけどそれ以外のことに関してもほとんど無関心だった。これは日本のどこの研究室でも同じような状況であると思う。本当にこんなに留学に関して消極的でいいのか。学生を手元に留めておくようにするのは、短期的にはいいかもしれないが、長期的には逆効果だと思う。海外にどんどん学生を送り出しつつ、海外からも学生を受け入れるような体制が私は必要だと思う。もちろん鉄砲玉のような学生もいるだろうが、完全に故郷との縁が切れるような人は稀であろうと思われるのだ。日本にはそれだけの(潜在的な)魅力がある。学生が出るのも入るのも渋る姿勢は、「私は優秀な学生を惹きつけるほどの魅力はないし、それを変える気もない」ということを自認して改善しようとしないことと同じではないだろうか。(たぶん続く)